学生運動がさめやらぬ1973年。当時20歳だった白潟篤さんは、浅草橋の革問屋で働いていた。いずれはグラフィックデザイナーになりたいと思っていたが、いつしか革という素材に魅せられるようになった。自ら革工房を構えたのは30歳のとき。2歳の息子がたまたまさけんだ「パーリィー!」という言葉が屋号となった。
グラフィックデザイナーの卵から革の目利きへ
「独立して最初の月の売り上げは、いまでも覚えています。
たったの85000円でした。
いまは7人のスタッフを抱えるようになったけど、
決して楽なわけじゃありません。
だから、女房にはずっと頭が上がらなくて(笑)」
白潟さんは竹を割ったような性格の人だ。
そのせいか、年を感じさせない。
休日には20代の若い作り手と一緒に、
愛車のハーレーでツーリングを楽しむ。
仕事の合間にも、同業の仲間から飲みの誘いが
携帯電話へかかってくる。少し古い言い方だが、
「ちょい悪オヤジ」という表現がよく似合う。
「ぼくにとって、革小物作りはずっと食うための仕事でした。
この仕事が本当におもしろいと思えるようになったのは、
50歳になってからです」
年を重ねて精神的にも余裕が出てきたせいか、
新しい製品の企画を考えるのが楽しくなったし、
上質なレザーグッズを所有するよろこびを、
素直に感じるようになったという。
そんな彼がいま注力しているのが「クラシックシリーズ」だ。
染料を塗り重ね、指であえてムラを作り出した革小物は、
コードバンのような輝きと色のグラデーションが楽しめる。
「カブトムシの甲羅みたいな色つやが好きでね。
若いころからやっている技法なんだけど、
とても手間がかかるから、量産ができない。
だから、一度は作るのをやめてしまった。
ところが、いまこの革が似合う年になって、
あらためてほれ直したというわけです」
以前は白潟さんしか革の手染めはできなかったが、
熱心に指導を続け、若い社員も技を学んだ。
これまで3人がレザークラフト作家として、
白潟さんの元から独立している。
「若いスタッフには『作りバカになるな』と
口を酸っぱくしていっています。
作り手である前に、アーティストであれと。
ここにいる間に独立しても食えるように育ってほしい。
そう思って後輩たちには接しています」
できるだけ長く続けること。それがブランドに課せられた使命
話は80年代のバブル期にさかのぼる。
時代は空前のDCブランドブーム。
財布やベルトにブランドのロゴが入っていれば
百貨店で商品が飛ぶように売れた時代だ。
反面、「パーリィー」のような独立系、
クラフト系のブランドは苦戦をしいられた。
「正直、同業者がうらやましかったですよ。
OEM(相手先ブランド製造)の仕事で
会社がどんどん大きくなっていくわけですから。
でも、ぼくは昔から人に指示されるのが嫌いで
オリジナルブランドでしか勝負できなかったんです」
団地の一室で創業して約30年。
いま時代がようやく白潟さんに追いついてきた。
ブランドよりも作り手のセンスに共感する
消費者が特に20代、30代を中心に増えてきた。
「ぼくは職人上がりではなく、クラフト出身なので、
細かい技ではなく、品物の個性を大切にしています。
例えば、フィンランド産の鹿革を使った
『エルクシリーズ』は、いま一押しの製品です」
鹿革は軽く手触りもソフトだが、
原皮の傷が多く、革業界では敬遠されてきた素材だが、
白潟さんの感性に「ビビッとくる」ものがあり、
いまでは日本で最もエルクを使うメーカーになった。
若い作り手たちもベテランに負けていない。
シュリンクレザーのポストマンバッグは、
高額ながらベストセラーになっている。
「来年で還暦を迎えます。創業まもないころ、
『パーリィー!』とさけんだ息子も、30歳になりました。
あと生きられるとすれば、せいぜい20年くらい。
だとすれば、気の合う仲間をもっともっと増やしたい。
革好き、バイク好きが集まり、店の工具を使って
自分で革小物を作って持ち帰る――。
そんな自由な店をいつか出したいですね」