大野雅史さん(43歳)は自宅から職場までの10kmの道のりを自転車で通勤している。そのせいもあって、むだな贅肉がなく、見た目も経営者というよりアスリートのようだ。大学時代は航空部に所属し、グライダーで大空を駆けめぐっていたという。やんちゃな青年はいま飛行機の操縦桿ではなく、会社の舵をにぎりしめ、オリジナルブランドの育成にいそしんでいる。
ファクトリーでもエレガントな婦人靴を作れるはず
大野さんが取締役をつとめる新興製靴工業は、
婦人靴の生産で国内屈指の生産能力を持つ。
創業は1946年。祖父にあたる故・大野憲一さんが
東京・向島に工場を構えたのがはじまりだ。
「幼いころは毎年自宅で会社の新年会がありました。
家族ぐるみのつきあいだったせいか、幼稚園の卒園文集で
『大きくなったら靴屋さんになる』と書いていました(笑)。
家業を継ぐことに迷いはありませんでしたが、
いま思うと覚悟は少し足りなかったかもしれません」
高校時代、物理少年だった大野さんは、大学では経営工学を専攻。
卒業してからは婦人靴の大手商社で3年間、百貨店の営業を担当した。
その後アメリカに1年間、語学留学して新興製靴工業へ入社する。
「社長(実父)はすぐに任せたがるタイプで、
研修もなく、いきなり子会社で生産管理担当となりました。
実際に製造現場にいると、日々いろんなトラブルが起きます。
靴作りがいかに複雑で大変か、身を持って体験しました」
大野さんが入社したのは製靴業界の転換期だった。
海外生産の安価な製品が出回るようになったころで
国内の量産メーカーはどこも苦戦を強いられていた。
OEM(相手方ブランド生産)の受注を1件でも多く獲得し、
従業員の生活を守る――。経営陣としての重圧が
若い大野さんの肩にも重くのしかかった。
「経営が大変なのはいまも変わりませんが、昔と違うのは
婦人靴を作るのが心から好きだと思うようになったことです。
30代半ばのときに、本場の一流品をたくさん見ようと、
イタリアやフランスに何度も通ったことが転機となりました」
「あらためて新鮮な目で婦人靴を見られるようになった」
という大野さんが、40代を目前にして模索しはじめたのが、
工房製作に限りなく近い工場生産のあり方だった。
「日本で人気のある高級インポートシューズの大半は
小規模の工房ではなく、工場のラインで作られています。
高度な職人技を持つファクトリー生産のブランド、
これこそが自分たちが進むべき道だと確信しました」
工場で働く若者が心から自慢できるブランドを目指す
余談だが、靴という漢字は「革を化かす」と書く。
平らな1枚の革を立体的な靴に変ぼうさせるには
革をひっぱり、材料を複雑に組みあわせなければならない。
「だからこそメーカーの技量が問われるし、
作り手の個性があらわれやすい」と大野さんは指摘する。
「履き心地や品質を少しでも向上したい」という思いから
2012年には福島にある自社工場のラインに自ら立ち、
5ヶ月もの間、従業員とともに靴を作った。
「福島にあるふたつの工場には約200人の従業員がいます。
その半数は地元の高校を卒業して入社した若者たちです。
彼らが自分たちの仕事に誇りを持るような靴を作りたい。
オリジナルブランドを立ち上げたのはそんな思いからです」
『クルル』というブランド名は社内公募で決めた。
スワヒリ語で「真珠貝」という意味があるという。
「最近はスポンジ入りのソフトな履き心地の靴が人気ですが、
『ちゃんとした革靴はそれ自体で履きやすい』という考えから
クルルではスポンジも合皮もほとんど使っていません。
裏地の見えない部分にもやわらかい馬革を使っているんですよ」
インポートシューズのような派手さや目新しさはないが、
ファクトリーならではのコストパフォーマンスの高さ、
履き心地のよさに魅了されたリピーターが増えている。
特に働く女性からオンオフで履けるとよろこばれているという。
工場生産による「まっとうな靴作り」に取り組んで丸4年。
大野さんが育てはじめた小さな真珠貝(クルル)は
若者たちの希望を内に秘めてすくすくと成長している。
※クルルの靴づくりを動画でもご覧いただけます。
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