イギリス王室には、ロイヤルワランティ(王室御用達)という制度が存在する。日本にもかつては同様の制度があったが、いまは俗称として残るのみである。そのため、公に宮内庁御用達と名乗ることはできなくなったが、代々、皇室方に品物を納める企業は歴然と存在する。来年(2013年)に創業100周年を迎える平田袋物工芸もそのひとつ。著名な服飾デザイナーや老舗バッグ店からの依頼で、歴代の皇后、妃殿下のフォーマルバッグを手がけてきた。
家族的な雰囲気の中で、精巧なビーズバックが生まれる
間もなく創業から1世紀を迎える老舗、
皇族方のためにあつらえたフォーマルバッグは数知れず・・・。
取材前の情報から、よほど敷居が高い会社に違いないと思っていた。
しかし、平田袋物工芸を訪ねて、杞憂(きゆう)だとわかった。
古い会社にありがちな頑固さやおごった態度はみじんもなく、
下町の商店街のような家族的な雰囲気で社内は包まれていた。
驚いたのは、お会いした方たちの年齢が幅広いことだ。
建物の上層階には、社長のご両親(80代)が暮らし、
下の職場では、現社長の孫(10ヶ月の男の子)が
バックデザイナーである母の机のそばで無邪気に遊んでいた。
社内は至って穏やかだが、同社を取り巻く環境は厳しい。
「私たちが得意とするビーズバッグは、もはや絶滅危惧(きぐ)種。
会社は来年で創業100年になりますが、
この先どれだけ日本でビーズバッグを作り続けられるか・・・」
そう語るのは、現社長の平田直人さん(64歳)だ。
白髪混じりのひげをたくわえ、
仕立てのよい背広をさりげなく着こなす姿には、
さすが御用メーカーの代表という貫禄(かんろく)がある。
当然だが、ビーズバッグはビーズを
生地に1個1個、刺しゅうするところからはじまる。
1個1個のビーズを整然と生地に縫い付けるのは、
熟練の技と長い時間を要するため、
日本では昔から外注の職人たちに任せられてきた。
「うちでは彼らを『プロの内職』と呼んでいます。
しかし、高齢化が進み、いま腕利きの内職さんは、
秋田と静岡にわずかに残るのみとなってしまいました」
平田さんいわく、「ビーズバッグを作る難しさは
できあがってみないとわからないところ」にある。
革のバッグは、形が決まれば、型で抜いて
同じ大きさを保ちながら量産できる。
しかし、ビーズバッグは作る人によって、
生地の縮み方(刺しゅうするときの布の張力)が違うため、
布のサイズに合わせて、芯の大きさを調節しなければならない。
1点1点微妙にサイズが違うのがビーズバッグで、
これこそが手仕事の証しでもある。
できるだけ長く続けること。それがブランドに課せられた使命
『CHÈRIR(シェリール)』は平田さんが
30歳(入社7年目)のときに立ち上げた、
平田袋物工芸初のオリジナルブランドだ。
それゆえ、若い頃のいろんな思い出がつまっている。
自社ブランドを立ち上げてしばらくしてから、
知人を介し、ヨーロッパのメゾンブランドに
製品を売り込んだことがあった。
そのときの彼らの返事は忘れもしないという。
『なぜ、ハンドバッグの本場に、
日本のものを持ってくるのか理解できない』
日本経済がめまぐるしく変化する中で、
『シェリール』が曲がりなりにも、
婦人バックブランドとして30年以上続いてこれたのは、
そのときのくやしさがバネになっている。
「彼らを見返したい気持ちがないわけじゃありません。
しかし、当のヨーロッパでもビーズを刺せる職人が減り、
いまやインドやアジアにビーズの刺繍を委託しています。
欧米進出にあらためてエネルギーをかけるよりは、
日本に残る技術の継承に力を入れたいというのが本音です」
そのためには、団塊の世代から下の世代にも
ビーズバッグの伝統や魅力を伝えていく必要がある。
「100年企業」をどう受け継いでいくつもりか、
平田さんの長男、純一さん(28歳)にたずねてみた。
「いまパーティーバッグやフォーマルバッグを持つ
若い女性がだんだんと減ってきています。
冠婚葬祭の場は、減ったわけでもないのにです。
母と娘の関係が昔よりも希薄になっていることが
その背景にあるような気がしています」
ひと昔前なら、母がフォーマルな着こなしを娘に教えたり、
フォーマルバッグを買い与えたりしていたが、そんな機会や売り場が減った。
その結果、婚礼や葬儀の場にブランドロゴが入ったハンドバッグを
平気で持っていく若い女性が増えてしまったというのだ。
「ビーズバッグの魅力を同年代に伝えていくには、
遠回りになってしまうかも知れませんが、
フォーマルな場所での着こなしやマナーを
若い世代に知ってもらうのが一番だと考えています」
ビーズバッグは、女性を美しく飾る小道具だが、
それを生み出す遺伝子は、祖父から孫へと
脈々と受け継がれていた。