物作りに限らず、ひとつの分野で成功した人は、若いころによき先輩やライバルに恵まれた人が多い。李宗鎭(イ・ジョンジン)さん(36歳)は、その両方に出会うことのできた幸運な若者だ。人情味あふれる町工場の社長と才能ある同期の存在に刺激され、婦人靴のオリジナルブランドを任されるにまでになった。
靴作りに国境はない。経営者の良心が若き才能を開花させた
李さんは30歳のとき、人生の岐路に立たされた。
大学卒業後、東京のファッション専門学校に再入学、
婦人靴メーカーのパイオニアで企画職の内定を得たものの、
就労ビザが下りなかったのだ。
「在学中はコンテストで賞を何度ももらっていましたが、
それだけでは日本で就職するのは難しいと痛感しました。
就活では靴メーカーを6社受けて5社から断られました。
最後の望みがいまいる会社でした」
夢半ばで韓国へ戻るか、
日本で靴作りの仕事をまっとうするか――
将来を案じる李さんに手を差し伸べたのが
パイオニアの2代目社長、西村博さん(44歳)だった。
社名同様、反骨と進取の精神に富む西村さんは、
専門学校の就職課や行政書士を巻き込み、
入国管理局の判断をなんとか覆させた。
いまに続く2人の信頼関係はここに始まる。
「もし西村社長と出会っていなかったら、
日本で靴作りの道を歩んでなかったはずです」
入社してから最初の1年は研修に費やされた。
自社工場で靴を作り、直営店でお客様に売るまで、
靴メーカーのイロハを身を持って経験させられた。
「一番刺激になったのは同期の存在です。
年下の女性でしたが、センスも技術も私よりずっと上で・・・。
負けたくないから、年配の職人さんに頼み込んで、
仕事が終わった後に靴作りの技を磨きました」
そうした努力が西村社長の目にとまり、
入社2年目には革靴のパターン(型紙)作りを
本場のイタリアで学ぶ機会も得た。
帰国後、李さんは社長の夢がつまった
オリジナルブランドを任されるようになった。
相手を思いやる気持ち、もてなしの心が日本の強み
無着色の革に手彩色したピオネロの靴は、
よくいえば、遊び心と創造性に富み、
悪くいえば、買う人を選ぶブランドだ。
「小さな靴メーカーがピオネロのような
個性的なブランドを維持するのは大変です。
でも、ピオネロの靴が並んだ店に行くと、
そのたびに不思議と心が癒やされて、
続けなくちゃという気持ちになるんです」
ブランドは続けることに価値がある――
そんな西村社長の考えもあり、
ファッション雑貨のパリコレといわれる
『プルミエール・クラス』に
ピオネロは毎年新作を出し続けている。
「イタリアに留学したとき、
靴作りのDNAの違いを痛感した」という李さんだが、
「いつかイタリアと張り合えるブランドにしたい」
とつねづね思っている。
日本の小さな靴メーカーが
本場で戦うにはどうすればよいのだろうか。
ヨーロッパと日本を外から眺めたとき、
「物を大事に思う気持ちが最も表れているのが
メイド・イン・ジャパン」と李さんは指摘する。
「八百よろずの神が日本にはいると学びました。
人だけでなく、身近な物に対しても扱いが
丁寧なのが日本人の素晴らしいところです。
そうした繊細な日本の物作りを
ヨーロッパに伝えていくのがぼくの役割です」
西村さんが開拓したフロンティアは
青々とした新芽でおおわれつつある。