ベルモードの歴史は、そのまま日本の婦人帽子の流行史と重なる。戦前はオートクチュールの専門店として、外交官夫人や貴族の女性たちの頭上を華やかに飾り、「いくつベルモードの帽子を持っているか」で上流婦人の評価が決まるといわれた。その評判は宮家にも伝わり、昭和34年の皇太子ご成婚の際には美智子妃殿下のお帽子を手がける栄誉を得た。数々のブランド神話で彩られた老舗をこれから率いるのが、筒井泰輔さん(42歳)である。
大正時代に渡仏。本場で帽子作りを学んだ若き日本人
ヨーロッパのメゾンブランド同様、
ベルモードの伝説もまた、
いち職人の工房から始まる。
時代は大正初期。
横浜の貿易商で働いていたひとりの青年は、
そこで取り扱われていた、
舶来物の美しい婦人帽にすっかり魅了された。
一念発起し、大正14年、22歳でパリへ渡航。
ファッションの本場で帽子作りを学んだ。
帰国後、青年は25歳の若さで
小さなアトリエを東京都内に構えた。
パリ仕込みの斬新な帽子は、
瞬く間に上流婦人たちをとりこにし、
3年後には銀座にも店を出した。
当初は特注の帽子をあつらえていたが、
ファッションの大衆化を見越し、
昭和11年にいち早く自社工場を設立。
百貨店向けにプレタポルテの帽子も作り始めた。
日本の婦人帽子の基礎を作った人物こそ、
ベルモード創始者の故・筒井光康さんである。
ちなみに、ベルモードという店名は、
元フランス大統領のレイモン・ポアンカレーが
創業者に送った激励の手紙に由来する。
そこにはこう書かれていた。
「よく研究し、よく保持せよ、麗しき(ベル)モード」
オーダーメードの帽子をかぶることが
紳士淑女のたしなみとされた時代は終わりを告げ、
帽子は若者の個性を演出するための小道具や
日差しを遮る実用品としての要素が強くなった。
創業者の孫、泰輔さんがベルモードに入社したのは、
バブルが崩壊し、日本全体が苦しんでいたころだ。
作れば売れる、そんな時代はとうに過ぎ去っていた。
優雅でかぶり心地のよい帽子を日本で作り続けたい
デザイナーであり、職人でもあった祖父と違い、
泰輔さんは自ら帽子を作ることはしない。
だが、前例にとらわれない豊かな発想力は創業者譲りだ。
「先代(筒井光康)は枕元にいつもメモを置いていて、
新作のアイデアを思いついては、アトリエに持ってくる、
そんな人でした。筒井も似ていて、社員を驚かせるような
提案をよくします。製品化されることは少ないですが(笑)」
ベルモードの現社長、喜多洋子さん(68歳)は、
甥でもある泰輔さんをこう評する。
泰輔さん自身も「企画が実現されるかどうかは二の次。
デザイナーや職人は帽子作りに精通しているがゆえに
発想がこり固まってしまいがち。そこを打ち破るのが
営業部門のトップである自分の役目」だと思っている。
そんな泰輔さんは、ベルモードのシンボルである、
「スカラベ」を帽子の飾りとして16年ぶりに復刻した。
スカラベとは、コガネムシの一種で、
古代エジプトでは太陽神の象徴として神聖視されていた。
そこには「太陽のように永遠に光り輝く存在でありたい」
という願いが込められている。
「あと15年でベルモードは創業100年を迎えます。
弊社の高度な帽子作りの技術を残すには
技術の継承が不可欠です。そのために一度閉じた、
アトリエを早急に復活させたいと思っています」
アトリエでは腕利きの帽子職人を講師として招き、
社員の研修や、若い作り手の技術向上を狙うという。
帽子は細かい造作で印象が大きく変わる。
どんなシルエットにすれば、エレガントに見えるか、
どんな影を作れば、その人の顔が美しくに見えるか、
言葉にできない微妙なニュアンスが作り手に要求される。
「帽子作りの本場はヨーロッパですが、
オーガンジーのような軽くてソフトな帽子を作るのは、
繊細な感覚を持った日本人が得意とするところです。
アトリエがきちんと機能するようになったら、
ニューヨークやパリにも店を出してみたいですね」
祖父が残したベルモードの伝説に
泰輔さんがどんな一章を書き加えるのか、
いまから楽しみだ。